革命学舎

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書く、これしか出来ないから。

通り雨で冷やされた約束

投稿日: 2025-05-21

タグ: #story

暑さというものは、人間の判断力を奪うらしい。夏の陽射しが照りつける道を歩いていると、思考の輪郭がぼやけていき、あらゆるものが溶けだしていくような錯覚に襲われる。自転車はいとも簡単に溶けていくだろう。道のお地蔵さんも危うい。街路樹は、どんな日でも溶けない気がする――今日もそんな日だった。

暑さに耐えかねてふらっと店に入った時、冷房の風が肌を撫でた。人工的な涼しさ。自然の暑さから逃れるための人工の冷たさだ。我々は常にそうやって対立するものの間で生きている。

僕は冷やし中華を注文した。喉の渇きを潤す麺と冷たいスープ。夏の正解のような料理だ。店の外で風に吹かれる「冷やし中華始めました」の文字を見た時から、これを注文することを決めていた。

しばらくして運ばれてきたのは、白い皿に整然と並べられた餃子だった。
「すみません、冷やし中華を頼んだのですが」
店員は微笑んだ。「これも冷やし中華です」

言葉というのは、時に意味を失う。あるいは、意味があまりにも多すぎて、結局は無意味になる。「冷やし」と「中華」という言葉が持つ可能性の範囲がここまで広いとは。

餃子をおそるおそる触ってみる。僕のものなのだからいいだろう。――冷たい。夏にぴったりのこれは確かに「冷やし」である。そして餃子は確かに「中華」でもある。餃子を一つ口に入れる。わかってはいたがやはり冷たい。ただ、凍ってはいなかった。これが冷やし中華と呼ばれるなら、世界の定義はいとも簡単に崩れ去るだろう。

カフカは『変身』の中で、人間が虫になる過程を描いた。僕は今、餃子が冷やし中華になる過程を目撃している。変容というのは、視点の問題なのだろうか? だが、言葉の意味を拡張することと、約束を破ることはどこで分かれるのか。

僕は会計を済ませた。店を出る前に振り返ると、新しい客が入ってくるところだった。彼も冷やし中華を頼むのだろうか。

帰り道、再び暑さの中に身を置く。店の中は快適な温度だったが、外に出ると心地よい暖かさを感じる。もっとも、数分もすればこの暑さは不快になるのだろうが。境界を越えるということは、常にそういう混乱を伴う。

暑さの中を歩きながら、僕は餃子の冷たさを思い出していた。対立するものは常に互いを含んでいる。暑さの中の冷たさ。約束の中の裏切り。言葉の中の沈黙。冷やし中華という幻想を、僕は今日、食べたのかもしれない。あるいは、冷やし中華という名の別の何かを。――あの「冷やし中華」も、外に出たら溶けだすのだろうか。