生のさざめきは輝かない
音楽とは何か。私は作曲家として、長らくこの問いについて考えてきた。しかし今日、一つの確信に到達した。音楽には決定的に欠けているものがある。
世の中には無数のえっちな小説――人はこれを一般に官能小説と呼ぶ――がある。書店の一角を占領し、人間の欲望を満たし続けている。イラストレーションにしても同様だ。二次元の美少女たちが様々なポーズを取り、我々の想像力を刺激する。君もTwitterをやっているのなら経験があるだろう。(――ここで君は思い出す。シャニマスの樋口円香が性行為に及んでいるイラストを。子供の落書きみたいな主人公がなんとかアーカイブのキャラにセクハラをするイラストを。知らないゲームの知らないキャラの、無数のえっちなイラストを)
だが、音楽はどうか?
確かに歌詞が官能的な楽曲は存在する。しかし、それは言葉の力であって、音楽そのものの魅力ではない。メロディーが、リズムが、直接的に性的な興奮を喚起することなど可能なのだろうか。
作曲を始めたのは三年前のことだ。きっかけは些細なものだった。隣人の咳払いが妙にリズミカルだったのである。
「あの男は意識的にやっているのか?」
そう疑問に思った瞬間、私の中で何かが開花した。日常の音すべてが音楽的素材として認識されるようになったのだ。
冷蔵庫のモーター音。階段を上る足音。遠くから聞こえる電車の警笛。それらは単なる雑音ではなく、未完成の楽曲の断片だった。
さて、えっちな音楽について考察を続けよう。
なぜ音楽の分野だけが性的表現において立ち遅れているのか。これは興味深い問題である。視覚芸術も文学も、人間の根源的欲求を表現することに成功している。だが音楽だけは、どこか上品ぶっている。――「芸術は高尚でなければならない」――そんな偏見が音楽界を支配しているのではないか。だが、人間の本能を否定することが果たして芸術なのだろうか。
私はその答えを見つけるために、禁断の領域に足を踏み入れることにした。
本日午前一時三十七分、私は真に性的な曲を完成させた。完成だと思ってから何度か再生し、その度に脳が震える感覚を味わった。
楽曲の構造は極めて単純である。基音から始まり、微細な音程の揺れを経て、最終的にオクターブ上で解決する。時間にして二分三十秒。しかし、その短い時間に込められた音響的エロティシズムは、これまでの音楽史を覆すものだった。
「これが本物だ」
私は確信した。
だが、問題は残る。
この楽曲を世に発表することは可能なのだろうか。音楽配信サービスは果たして受け入れるだろうか。コンサートホールで演奏されることはあるのだろうか。
そして何より、聴衆は準備ができているのだろうか。――真にえっちな音楽に対して。
私はその楽曲を、「Erotique No.1」と題し、普段活動している名前とは別の名前でSoundCloudにアップロードした。 数日後、通知が来た。コメントが一つ。
なんか冷蔵庫の音みたいで草
さらにもう一件。
クソゲーのSEにありそう
再生回数: 17回。私は黙ったままひっそりとその楽曲を削除し、しばらく何も作らなかった。
結論として言えることは一つだけだ。
私は人類初の真にえっちな音楽を創造した。それは疑いようのない事実である。ただ、世界は、まだ真にえっちな音楽を受け入れる準備ができていなかったのだ――いや、もしかしたら永遠にできないのかもしれない。
次の日、公園で小鳥のさえずりを聞いた。少なくとも、私の「Erotique No.1」のほうがはるかにえっちだった。私はそれで、満足した。