脱却不可能
森の中で出会ったクマは、異質だった。朝、研究所への道を歩いていると、彼は木々の間から現れた。茶色い毛皮と小さな目が、まるで獲物を吟味するよう、あるいは何かを試すように、じっとこちらを見据えていた。――クマだ。だが、その瞳の奥に宿る光は、野生のそれとは明らかに異なっていた。人間よりも、いや、人間以上に聡明な、何かがそこに潜んでいるように感じた。
僕はリュックサックを背負って歩いていたので、逃げてもすぐに追いつかれてしまうだろう。どこかで教わった通り、その場で動かずに見つめ返した。しばらく、僕らの間には静かな時間が流れた。
「インターネットについて教えてほしい」
クマはそう言った。人間の言葉で。
驚くべきことだろうか。かつてなら童話か幻覚と笑われただろう。だが今や、車が勝手に走り、パソコンが勝手にしゃべる時代だ。クマがしゃべったところで、誰が本気で驚くだろうか。そう、我々はもはや何にも驚かない世界に生きている。
僕は教えた。最初はブラウザの開き方から。検索エンジンの使い方。SNSの仕組み。情報の海を泳ぐ方法を。
クマは学んだ。早く。あまりにも早く。
時が経つにつれ、ニュースは変わっていった。「動物権利団体、突如メンバー急増」「クマの銃殺に反対する市民」「猟師に不利な条件に賛成多数」
人間は気づかない。いや、気づかないふりをしているのか。ただスマートフォンを見つめる目は、もはや何も見ていない。しかし僕にとって、それらは確かに繋がっていた。見えない糸で。そしてその糸の端は、おそらくあの森へと続いていた。
クマたちはインターネットを武器にした。彼らの世論工作は完璧だった。なぜなら、人間の感情を理解していたから。恐怖と希望。怒りと共感。これらのボタンを正確に押す方法を。
誰かは言った。「言葉は氷の海に閉ざされた私たちの心を打ち砕く斧である」――今、この斧を持っているのはクマたちであることは明らかだった。
昨日、最後のメールが来た。あのクマからだった。
「我々に唯一友好的な人間であるあなたを王にする準備が整った」
その言葉は甘美だった。だが、王とは何だ? 王になる――それが人間を完全に見限るということなら、僕は、何を捨てるのか?
「クマの王になる」――それは裏を返せば、人間の敵になることだ。この戦いはまだ始まっていない。けれど始まるのは時間の問題だった。クマたちは動き出している。クマに協力する人間も増えている。人間側もまた、警戒を強めている。森と都市、両者の間に張り詰めた空気がある。かすかな風が吹けば、均衡は簡単に崩れる。
僕は考えた。人間の社会は何を守ってきたのか。何を捨ててきたのか。そんなことを考えながら眠りについた。
今日の朝、起きた僕を出迎えた10:15のデジタル時計を見て、決断した。マイナンバーカードを捨てた。クレジットカードを切り刻んだ。スマートフォンを川に投げ込んだ。より直接的な表現をするなら、彼らの側につくことにした。
空は青く、雲は白い。当たり前のことが、なぜか特別に感じる。おそらく、これが最後の記録になるだろう。
人間社会に別れを告げる。それは悲しみではなく、解放感に近い。森が呼んでいる。行かなければ。
僕は駆け出した。東京発、新青森までのチケットを手にして、最寄り駅へ。