革命学舎

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書く、これしか出来ないから。

真実の噓を彫る

投稿日: 2025-06-16

タグ: #story

私は嘘つきである。 この日記もまた嘘だ。

私がサグラダ・ファミリアの夜警を始めて三か月になった。昼間は観光客の靴音で賑やかな聖堂も、夜になれば石の沈黙だけが残る。静かな月の淡い明かりの中を、指定された時間に懐中電灯を持って歩く、そんな仕事だ。実のところ、この仕事は完全に私にあっていた。夜だと言うだけで給料はほかより高く、睡眠は私にとって問題にならず、そして静かな職場だ。
ふと、そこに佇むそれを見上げた。建築というものは不思議だ。昼と夜で全く違う生き物になる。
かつて私は設計図を描いていた。線を引き、寸法を記し、夢を形にしていた。小さな建築事務所で、住宅から商業施設まで、あらゆる建物の設計に携わった。
しかし経済危機が全てを奪った。事務所は閉鎖され、私の手から定規とコンパスは消えた。建築への情熱は、請求書の山に埋もれていった。私は理解した。私はもう建築家ではない。建築家だった男だ。
そして今、皮肉にも私が最も愛した建築物の中で、警備員として夜を過ごしている。夢の中を歩く警備員に過ぎない。皮肉なものだ。いや、皮肉ではない。これは必然だったのかもしれない。

ある夜、私は音を聞いた。 石を削る音。 カツ、カツ、カツ。
時刻は午前二時四十分。観光には少し遅すぎる時間だ。私は身を潜めた。主祭壇の裏から微かな光が漏れている。誰かがいる。工事関係者だろうか?しかし深夜に作業をする理由はないし、これまで工事は昼にしか行われていない。
私は近づいた。そして見た。
黒い影がなにかの道具を持ち、石を削っている。その動作は丁寧で、愛情に満ちていた。破壊者にしては奇妙な優しさがあった。いや、これは破壊なのだろうか?
「こらっ!」
私が声を上げて追いかけようとすると、影は闇に消えてしまった。
さて、どうするか。
本来ならば日誌に書かなければならない。それがルールだ。しかしそれは私が翌日、あるいは別の日に呼び出されて証言と建物の状態を照らし合わせる作業が待っていることを意味する。あるいは警察の取り調べを受けなければならないかもしれない。
であるならば答えは簡単だ。私は今日のことをそっと胸の中にしまった。私は夜に懐中電灯を持って歩く給料は貰っているが、日誌のための給料はもらっていない。付け加えるならば、次の私の夜警の時に捕まえてはじめて知った顔をすれば良いのだ。
「問題なし」
私はそう書き込むと、そのまま退勤した。

数週間後の巡回中、私は再び影に会った。今度は、声を荒らげなかった。
「あなたは誰だ」
私は問うた。老人は振り返った。痩せていて、目が異様に輝いていた。月光が彼の頬を照らしている。美しい老人だった。醜くもあった。
「フェルナンド・ガウディ・イ・コルネット」
彼は答えた。
「ガウディの血を引く者だ」
ガウディ?あのアントニ・ガウディの? しかし彼に子供はいなかったはずだ。
「遠縁だ」
彼は続けた。
「しかし血は血だ。意志は受け継がれる」
意志とは何か?私は問わなかった。問う必要がなかった。彼の手に握られたノミが全てを語っていた。

男と話した。いや、聞いた。彼は語り、私は聞いた。私は久しぶりに、カスタマーセンターの電話対応マニュアルを思い出した。そして、最悪の体験だった以前の仕事を思い出し、苦虫を噛み潰したような表情をした。男はそんな私の顔を一瞥すると、ゆっくりと、そして強くこう言った。
「完成させてはならない」
彼は言った。
「この聖堂は永遠に建設され続けなければならない」
なぜ?
「完成は死を意味する。しかし建築は生き続けるべきだ」
彼は古い手帳を見せた。ガウディの直筆だという。私には真偽のほどは分からない。しかしそこには確かにこう書かれていた。

Acabar es morir. Crear es vivir eternamente.(完成することは死ぬことだ。創造することは永遠に生きることだ)

私は建築士だった。完成を夢見ていた。しかし今、この老人の言葉が胸に響く。完成とは何だろうか? 未完成とは何だろうか?

男の一族は百年以上にわたってこの「仕事」を続けてきたという。昼間に積み上げられた分だけ、夜に削り取る。建設の進歩と破壊の進歩を均衡させる。
これは破壊なのか? それとも創造なのか?
私には分からない。しかし美しいとは思う。狂気じみているとも思う。美と狂気は隣り合わせだ。ガウディ自身がそうだったように。
「君はどう思う?」
私は答えられなかった。答えたくなかった。答える資格があっただろうか?

決断の時が来た。
彼は老いている。震える手でノミを握っている。もう長くはないだろう。誰かが後を継がなければならない。
「君に頼みたい」 彼は言った。 「この使命を」
使命? 馬鹿げている。 私は警備員だ。守るのが仕事だ。しかし何を守るのか。建物を守るのか、それとも建物の魂を守るのか。
ガウディは言った。創造することは永遠に生きることだと。
私は答えた。分かりました、と。

私は今夜もノミを握る。
昼間の観光客たちは完成を待ち望んでいる。
「いつ完成するのですか?」「美しい建物ですね」「早く完成が見たい」
彼らは知らない。彼らの望みは叶わないということを。真の美は完成にはないということを。真の美は永遠の創造の中にあるということを。
私は微笑む。秘密を抱えた者の微笑みだ。
カツ、カツ、カツ。
石の音が響く。削られた石の粉が月光の中で舞い踊る。それは雪のようでもあり、星屑のようでもある。美しい。

この日記は嘘だと最初に書いた。
しかし今、それは真実になった。嘘が真実に変わる瞬間を私は体験した。私は建築士だった。 今は警備員だ。 そして夜には破壊者に、いや、創造者になる。
彼は言った。「我々は時間の彫刻家なのだ」と。時間の彫刻家、いい表現だ。少なくとも、破壊者よりは。

朝日がサグラダ・ファミリアを照らしている。ステンドグラスが虹色の光を投げかけている。その美しさに、早くも観光客が集まり始めている。
私は微笑む。
彼らは知らない。この美しさが一夜にして生まれたものではないことを。百年以上の歳月をかけて、建設と破壊、創造と解体を繰り返してきた結果だということを。
永遠の未完成。
それこそがガウディの真の遺産なのかもしれない。
私は嘘つきである。 しかしこの嘘は美しい。真実よりも美しい嘘は、確かにここにあった。

(日記はここで終わっている。終盤のいくつかのページには、石の粉がわずかに付着している)