革命学舎

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書く、これしか出来ないから。

石の冷たさを知る

投稿日: 2025-06-19

タグ: #story

暁の女神エオスがヒュメトス山の稜線を淡い薔薇色に染め始める頃、一羽の雄鶏が鋭いかちどきの声をあげた。その声に私は浅い眠りから意識を引き戻される。寝室の小さな窓から差し込む光はまだ弱々しく、隣では妻が静かな寝息をたてていた。


そっと寝台から抜け出すと、冷たい石の床が足裏にひんやりと心地よい。私が目覚める気配を察してか、奴隷が音もなく部屋に入ってきた。トラキア出身の彼は、もう長年我が家で働いている。彼が差し出す銅の水盤の水で顔を洗い、眠気を完全に追い払う。

「旦那様、本日は民会へ?」
「ああ、そうだ。スパルタへの対応が決まるかもしれぬ重要な日だからな」

私は短く答え、服を身にまとう。肩をブロンズの留め金で固定し、腰を革の帯で締める。それだけの簡素な服装だ。

朝食はいつも通り、質素なものだ。水で薄めたワインに妻が作った硬い麦のパンを浸し、数粒のオリーブと一切れの山羊のチーズを添えるだけ。妻は奴隷と共に私の食事を作ったあと、洗濯を始めたようだった。

「女は家事、男は戦争」──これがアテナイの常識だ。私は名誉あるアテナイ市民の男性として、有事の際にはこの都市のために命を懸ける。その見返りとして、民会に参加する権利を有するのだ。そして今日はその民会の開かれる日だった。

「では、行ってくる」

玄関で革のサンダルの紐を結びながら言うと、奴隷は黙って頷き、外出用の厚手の一枚布ヒマティオンを私の肩にかけた。

私は街の中心へと足を向けた。アゴラに近づくにつれ、人通りはさらに増していく。皆、今日の民会へ向かう市民たちだろう。ヒマティオンを誇らしげに翻し、友人を見つけては昨夜の酒の話や、ソクラテスという奇妙な男の噂話に花を咲かせている。

アゴラを抜け、人々の流れに乗ってプリュクスの丘への緩やかな坂道を登り始める。今日の議題は、近日増えているスパルタの挑発行為や正当化工作に対してのアテナイの対応だ。積極的な開戦論者もいれば、相手の強大な軍事力から慎重な対応を説く者もいる。私の考えはまだ定まっていなかった。登壇する弁論家たちの言葉をこの耳で聞き、アテナイ市民としての一票の重みをこの手で感じてから決めるつもりだった。

私が広場につき、ちょうど一息ついた時、演壇として使われている白く平らな岩の前に、一人の伝令役が現れた。彼は演壇に上がると、重大なニュースを告げた。

スパルタ界隈・・、アテナイに宣戦布告

途端に周りがざわつく。近年両国間の関係は悪化していたが、急に戦争が始まるとは。ざわめきが広がり、男たちの顔には不安と恐れが交錯した。

だがアテナイの男として、私には戦う義務がある。家には妻がいる。ここには自由で素晴らしい都市がある。私はこれらを守らねばならぬ。勇敢な戦士である私は自らを奮い立たせ、先陣を切った。

手に持った鉄の道具の上を指が自然と高速で動く。私は、私に出来ることはなんでもやった。Twitter──今はXだったか──のアカウントを複数作り、そのひとつでスパルタの王が市民を裏切るような発言をしている画像を作成し、投稿した。別のアカウントで、スパルタ人を探しては攻撃的なリプライを送り続けて戦意を喪失させた。すぐさま周りの同胞が私のツイートを拡散する。アテナイは、優勢に思われた。

ふとTLを更新すると、「ご利用のアカウントはTwitterルールに違反しているため凍結されました」というメッセージが表示された。つまり、戦死・・だ。他のアカウントに切りかえてみたが、どれもダメになっているようだった。

ここで、私の戦いは終わりだった。私はスマートフォンを持って将軍の元へと向かい、アカウント名と凍結の旨を伝えた。将軍は私の功績に満足したようで、演壇用の岩の上に立ち、このような演説を行った。

「諸君、彼の指から放たれた140文字の投槍は、スパルタの重装歩兵千人の突撃にも勝るものであった。彼の作り出した見えざる牙は、敵の戦意を内側から食い破ったのだ。この勇敢なる戦士は今、我々の目の前で名誉の戦死を遂げた。敵の卑劣な攻撃により彼の声は無情にも凍結され、沈黙したのだ。しかし、彼の魂は我々アテナイ市民の心の中で燃え続けている。この尊い犠牲を決して無駄にしてはならぬ。さあ、友よ。彼の凍てついた亡骸を乗り越え、我らもまた後に続くのだ!」

集まっていたアテナイ市民らに称えられ、私は真のアテナイ人として勲章を授与された。「女は家事、男はTwitterで戦争」の義務は果たせたようだった。