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革命学舎
書く、これしか出来ないから。

砂浜の足跡

投稿日: 2026-05-16

タグ: # story

ある春の夜のことだった。私はいくつかのターミナルとCursor、そしてライブプレビュー画面をPCで開きながら、タスクに取り掛からずに画面の隅の小さなスペースでソリティアに興じている時だった。

「円周率コンテストに参加しないか?」

古くからの友人が私にそう告げてきた。いや、正確に言うとDiscordでの連絡だったため「送ってきた」が正しいだろう。とにかく、どうやら世の中にはそんなコンテストがあり、そして僕も参加できそうであると彼は判断したようだった。

さて、私は何を求められるのだろうか。

これは皆さんもそうであったと思うが、私も例に漏れず小学生の時に円周率をなるたけ覚えたものだった。小学校で算数のみを教えていた教師が「円周率100万桁」という本を持っており、休み時間に通っては自由帳に写した記憶がある。もちろん書いたところ全部を覚えられた訳ではないが、小数第46桁まで暗記したところまでは覚えている。もう今やこの記憶はぼやけており、せいぜい20桁くらいしか言えないであろうが元々ある程度覚えていた分、他の人よりも覚えることが楽であるのかもしれない。

私は自分がコンテスト会場で皆に見られながらただひたすらに白紙に数字を記入していく自分を想像した……これが求められているのだろうか。

また、パソコンをカタカタさせているオタクとして、指定時間内に円周率を計算させるというような競プロ的タスクが求められている可能性もあるだろう。

前者の方が楽そうだな、いやしかし本番までにキツイのも前者だろうな、などと考えていると、彼は追加のメッセージを送ってきた。

「覚えている桁数が少ないやつが勝ちなんだ」

はて、どういうことだろう。彼の話す内容を要約すると以下のようなことを言っていたはずだ。

「小数部分を忘れることには成功したんだけど、整数の部分を忘れることが難しいんだ。おれには無理かもしれないから君も出てくれ」

円周率を忘れるなんて!

今は覚えることはしていないが、思い出のある円周率を忘れたくなんかなかった。それに転生した先の異世界が円周率を覚えているとモテモテの世界である可能性もあるだろう。私は少し考えてから返信を打った。

「わかった、出てみるよ」

私は友人の誘いに乗ることにした。特に練習せずに出ればいいか、なんてことを考えたのだ。これが人付き合いってやつなんだろう、とも考えた。そのあとは再びソリティアに戻った。

コンテスト当日、会場は公民館の小会議室だった。参加者は十数名。横長のテーブルの上には白紙が一枚と鉛筆が一本置かれており、硬そうなパイプ椅子が用意されていた。
友人は隣の席に座り、緊張した顔をしていた。「整数部分がどうしても頭から離れないんだよな」とぼやいている。

「3」だっけ、と私は思った。

いや、待て。「3」だっけ?

なぜか急に自信がなくなってきた。「3」という数字と円周率が、うまく結びつかない。結び付きが弱いと言うことは円周率に出てこないとか?

いや、円周率は無限に続くものだしその中のどこかには3が出てくるだろう。きっと私が最初に思いついたのもたまたま3が46桁目とか47桁目とかに出てきていただけに違いない。

「はじめ」という声がして、周りが一斉に鉛筆を走らせ始めた。私だけが止まっていた。

結局、何も書けないまま終わってしまった。白紙のまま回収されていく紙をただ見ていた。この紙は採点後には捨てられるのだろうか、そうならば最近の風潮SDGsに反している、と思った。反国際的……それもなかなか良い。回収時に審判員は「ゼロ桁、ということですね」と確認してきた。私は頷いた。

友人は恨めしそうな顔でこちらを見ていた。彼の紙には「3」とだけ書かれていた。