夜露のかたち
「きなこ〜、ご飯だよ〜」
時間は午後七時。もう既に日が暮れて暗くなった庭に向かって縁側から名前を呼んだが、ひっそりとした庭からは虫の音しか返ってこなかった。いつもならきなこが嬉しそうに寄ってくるのだが、今日は庭にはいないようだ。
ネコは気まぐれ、とよく言う。大方どこかで道草でも食っているのだろう。別に放っておいても構わないのだが、私が近くに行けば寄ってくるはずだ。
「ちょっと外見てくる」
キッチンで夕飯を作っている母親にそう告げると、サンダルを履いて玄関の扉をそっと開けた。
町のはずれにある私の家の周りは街灯が少なく、道路の脇の田畑は真っ暗だ。目が慣れれば意外と歩けるものだが、家から出たばかりの私の目は、まだ世界をあいまいにしか捉えてくれないようだ。
「きなこ〜」
道をずんずんと進むと、どこからともなくギターの音が聞こえてきた。爪が金属の線を擦るような、ひそやかな音色。荒っぽくなくて、どこか寂しげで、だけどひどく落ち着いたギターの音だった。
(……どこからだろう?)
吸い寄せられるように私は音のする方へと足を向けた。一歩進むごとに、夜の空気を割って音楽が鮮明になっていく。
近所の小さな公園を覗き込んでみると、暗がりの中にぽつんと小さな光の溜まりがあった。古い街灯の下。塗装のはげかけたベンチに誰かが座っている。
(人がいる)
近づいてみると、同じくらいの年の女の子がギターを抱えていた。彼女は大きなアコースティックギターを愛おしそうに抱え、長い睫毛を伏せて目を閉じ、ゆっくりと弦を爪弾いている。
その横顔があまりにも綺麗で、私は息をすることすら忘れてしまった。
きなこを探しに来たことも、家に夕飯が待っていることも、すべてが頭から吹き飛んでいた。ただ、彼女の指先から生み出される音と、街灯に照らされた淡い髪の輪郭だけが、私の世界のすべてになった。
曲が終わって彼女がゆっくりと目を開けるまで、私はそこに立ち尽くしていた。
「聴いてたの?」
目を開けた彼女は驚いた様子もなく言った。
「ごめん、つい」
「いいよ、別に」
それだけだった。私はベンチの端に腰を下ろした。追い払われなかったから、それでよかった。黙って私は音楽を聞く。彼女も何も聞いてこない。名前も、学校も、どこに住んでいるかも。ただ虫の音に混じってギターの音だけが夜の空気に溶けていった。この音楽は今、私だけのものだ。そう思った。
帰り際、茂みの奥からきなこが顔を出した。心なしか満足そうな顔をしていた。
きなこを探しに行くふりをして、というのは最初の二、三回だけで、その後は理由もつけずに出かけるようになった。母は特に何も言わなかった。
彼女はたいてい先に来ていた。ベンチに座って、膝の上にギターを乗せて、気が向いたときに弾いた。私は隣で聴いていた。最初はベンチの端だったのが、いつの間にか隣り合わせに座るようになっていた。肩が触れそうな距離で、彼女の指が弦を押さえるのを、私はずっと眺めていた。
ある、雨の夜があった。
公園に着くと、彼女はベンチの屋根代わりに使っているのかビニール傘を頭の上に差したまま、それでも律儀に弦を爪弾いていた。ギターケースを膝で抱えて、楽器だけは濡らさないようにしながら。
「馬鹿じゃないの」
思わずそう言ってしまって、口を押さえた。失礼だったかもしれない。でも彼女はちっとも気分を害した様子もなく、ただ困ったように笑った。
「弾きたかったんだもん」
私は傘を彼女の頭の上に差し出した。自分の肩が少し濡れても、それでよかった。彼女は小さくありがとうと言った。二本の傘が触れ合うほど近くで、私たちは並んで雨音を聴いた。ギターは静かなままだった。
ある夜、彼女が珍しく曲の途中で手を止めた。
「ねえ、これ」
弦を指差しながら、「ここ、どう聞こえる?」と言った。もう一度同じフレーズを繰り返す。
「……なんか、引っかかる感じ?」
「そう!」彼女は顔を上げた。「そこがずっと気になってて」
それから二人で音について話した。上手いとか下手とかじゃなくて、どの音が好きで、どの音が引っかかるか。彼女の言う「引っかかる」と私の感じる「引っかかる」が微妙に違って、その違いを言葉にしようとして、うまくいかなくて、二人してベンチの上で笑った。
名前を教えてもらったのは、その夜だった。
「私、葵」
「……私は、紬」
月が出ていて、少し明るかった。
その日もいつも通り、胸を高鳴らせながら公園へ行った。
くすんだ木のベンチに彼女は今日も腰掛けていた。私の足音に気づいて弦から顔を上げると声には出さず、ただ嬉しそうに目を細めて私を迎え入れてくれた。
いつものように隣に座る。触れ合う肩の熱が心地よかった。
けれど彼女は数曲を弾いたあと、ふと唐突に演奏を止めた。
「もし良かったら、さ」
足元に置いてあった鞄に手を突っ込み、1枚の紙切れを取り出した。そして彼女は照れくさそうに笑いながら続ける。
「いつも、ここでバンドでライブしてるんだ。良かったら来てほしい」
彼女の言葉が耳に残った。何か言おうにも言葉が出てこない。
(バンド……?)
頭の芯が冷たくなっていく。
他に伴奏する人がいて、歌う人がいて、それを大勢の前で披露している。つまり彼女には他に「一緒に音楽をやる仲間」がいて、それを熱狂的に迎える「観客」がいるということだ――私とは違って。
彼女の音楽はこの寂しい夜の公園で、私のためだけに奏でられているのだとばかり思っていた。私と彼女だけの、誰にも侵されない聖域だと。
それは私の身勝手な妄想だったのだ。
「……そっ、なんだ」
裏切られた気持ちと共に、心には深い寂しさが広がった。やはり最初から自分だけの友達なんていなかったんだ。彼女の笑顔が、急に遠くに見えた。
冷静に考えれば見ず知らずの私を隣に座らせ、あんなに優しく微笑みかけてくれるような女の子だ。他人を惹きつける魅力も、それを受け入れる社交性もあるに決まっている。それを「自分だけの特別」と思い込んで勝手に恋のような執着を抱いていた私が、ただ滑稽でバカだったのだ。
「あの、ごめん。急に用事思い出しちゃって」
「え? あ、待って――」
引き留める彼女の声を振り切るようにして私はベンチから立ち上がり、走り出した。
背後から私を呼ぶ声が聞こえた気がしたが、振り返らなかった。涙で夜の景色がにじんで足元がよく見えなかった。
それきり私は公園には行かなくなった。親は夜に外出しなくなった私をみて安心している。まだあの公園には音楽が響いているのか、もうわからない。
追記: ようやく出せた
